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「ぼく」と「おれ」の待遇価値の変化に関する考察

2021-06-22 来源:乌哈旅游


目次

0 はじめに.................................................................2 1 日本語における人称詞....................................................4 1.1 名称の定義............................................................4 1.2 日本語の人称詞が持つ待遇的役割.........................................6 1.3 女性語と男性語........................................................8 2 人称詞の待遇価値の変化.................................................13 2.1 歴史的観点から見る「敬意漸減」の現象..................................13 2.2 男性自称詞の待遇階級の崩壊............................................14 2.2.1 「ぼく」から「おれ」への変化......................................17 2.2.2 「ぼく」と「おれ」の丁寧体率......................................20 2.2.3 「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用....................23 2.3 「あなた」の待遇価値の変化............................................26 3 人称詞と複数形の接尾辞.................................................30 3.1 各複数形接尾辞の比較.................................................30 3.2 「たち」と「ら」の使い分け............................................31 3.3 人称詞に付く「たち」と「ら」..........................................36 4 おわりに................................................................40

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0 はじめに

日本語の人称詞は西欧の諸言語とは違う特徴を持っている。そして、この人称詞は古い日本語の歴史の中で、いろいろな変遷を重ね続けてきた。もちろんその変化は未だに続いている。このような歴史的観点のみならず、いわゆる「現代日本語」といわれる、今現在我々が使用している日本語の範疇内でも、人称詞の変化ははっきり見えてくる。

ここでは、このような日本語人称詞の変化の様相を、歴史的、巨視的な観点よりは、現代日本語に基づいての「社会言語学的」な視点から、改めて考察していきたいと思う。一言で社会言語学的とはいっても、その研究領域は様々である。それでは、ここで、この「社会言語学的」という語の意味について、少し具体的に触れておく必要があるだろう。 社会言語学は、社会の中で生きる人間、ないしその集団とのかかわりにおいて各言語現象あるいは言語運用をとらえようとする学問である。コードとしての言語の存在を承認しないわけではないが、その分析・整序だけでは、ことばの研究としては不十分だと社会言語学者たちは考える。言語現実をそのまま認め、理論言語学者たちが切り捨てたものを前向きに取り入れていこうとするのが社会言語学の立場なのである。このように社会言語学は、普段我々が使っている語や文の一つ一つを考えるにおいて、それらの語や文が、どんな人によって、誰に向かって語られ、どんな時に、どんな環境で、どんな文脈のもとに、どんなチャンネルを通じて運用されたかなどを、正面から問題にする学問分野である。 現在日本で行われている社会言語学的研究を見渡してみると、その研究領域には様々な部門がある。「研究史的方法論」や「属性とことばの運用」などを研究する部門をはじめ、「言語行動」「言語生活」「言語接触」「言語変化」「言語意識」「言語習得」「言語計画」などと名付けられた、いろいろな研究がなされている

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もちろんこれらの研究は、複合的な研究方式をとる場合が多い。実は、本稿も非常に複合的な方面からの考察を指している。基本的には、話し相手、場所、話題など、「場面」といわれる会話の環境の条件によって、具体的な言語変種がどのように出現し、どのように機能するかを検討する「言語行動」的な視点から出発しているといえる。会話の中で人称詞を用いるとき、どこで、誰に、どういう感覚で使い分けているのかを把握するのがこの研究の主な基盤になる。その上で、本稿ではこのような使い分けのルールをもとに、人称

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詞の使用実態の変化に注目していく。しかし、先に述べたように、通時的なことばの変遷よりは、言語運用をめぐる社会的立場からの意識や認知にかかわる機能面を対象にし、人称詞に対しての意識の変化、それに従う運用の変化に焦点を当てて考えていくことにする。 とりわけ、本稿では、この「社会言語学的」考察をもっと効果的に進めるための具体的な調査方法として、小説や新聞などの資料を使用している。その中から、気になる用例を取り上げ、その運用形式を比較・考察する。そして、いろいろな用例から得られた新しい仮説をもとに、資料の検索を行い、その結果を数値化する。つまり、資料調査の結果を持って、総合的に仮説を検証していく形で本稿を進めていく。

本稿では、本論を三つの章として立てる。第一章では、西欧諸言語とは違う日本語の人称詞の特徴とは果たして何なのかを考える。先行調査でよく議論されてきた名称の概念や「女性語・男性語」などの側面も含めて、日本語人称詞の持つ待遇的役割について検討していく。第二章では、男性自称詞といわれる「ぼく」と「おれ」を中心にして、待遇価値の変化、社会的言語意識の変化について考察する。第三章では、複数を表す接尾辞「がた」「たち」「ら」「ども」などについて考える。これらの接尾辞は何を基準にして使い分けられているのか、人称詞に複数形接尾辞を付けるとき、その相関関係はどうなっているのかなどを、いろいろな新しい観点から観察していく。とりわけ、「たち」と「ら」の比較に焦点を当てていく。

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日本語における人称詞

1.1

名称の定義

まず、これから議論しようとする内容に関連する名称について考えてみよう。普段、我々は「人称代名詞」という呼び方をよく耳にする。それは、今までの学校教育で使ってきた、一般的な呼び方なのである。また、「人称代名詞」には一人称、二人称、三人称という区分があり、これらももちろんよく使われる名称である。しかし、これはあくまでも西欧式の区分であり、日本語にはどうしてもふさわしくないというのが、多くの日本語学者のいうところである。というのは、日本語の「人を表すことば」は、次項でも触れるように、西欧の言語とは、その語用論的側面から見て、かなり異なっているからである。これに関連して、鈴木孝夫(1973)は次のように述べている。

…日本語の「わたくし」「あなた」や「ぼく」「きみ」などを人称代名詞とすることは、日本語と多くの点で構造の違う諸言語の研究から導かれた説明原理を鵜呑みに取り入れた結果であって、日本語に見られる言語的事実とは相容れない誤りである…要するに現代日本語では、ヨーロッパ語に比べて数が多いとされている一人称、二人称の代名詞は、実際には余り用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別のことばで会話を進めていこうとする傾向が明瞭である。…以上の事実だけでも「わたし」「おれ」や、「おまえ」「あなた」などを人称代名詞と呼ぶことが、日本語の事実から遊離した、異質の文法概念の直訳的輸入にすぎないことが明らかであると思う。このように、日本語のいわゆる狭い意味での人称代名詞は他の語彙から独立した、一つのまとまった語群を、形体論的にも機能の見地からも形作っていない以上、これだけを切り離して扱う意味がなく、むしろ、親族名称、地位名称などと一括して、話し手が自分を表わすことば、および相手を示すことばという広い見地に立って、それぞれを自称詞、対称詞と呼ぶ方が適切であると私は思っている。対話の中に登場する第三者は他称詞と呼ぶことになる2。(p.130)

すなわち、日本語は、学校文法でいう「人称代名詞」以外の語を利用して、人を表す方が多いと言えるのであって、その語用論的特徴を無視した区分方式は無意味である。

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また、この鈴木氏の論説を踏まえて、田窪行則(1992)は、西欧式区分でいう純粋な意味での「人称代名詞」を「人称固定詞」といい、日本語独特の名称を兼している「人を表すことば」を「人称非固定詞」といって、鈴木式を折衷した方式を採用している3。この中から、本稿では鈴木(1973)に従った名称を用いる。

このような日本語の人称詞の特徴を念頭に置いて、まず、我々が普段よく耳にする人称詞にはどういうものがあるのか、既存の人称詞に関する論考やアンケートの結果などを参考にし、これから対象にする語彙についての先行調査内容と、その使用実態をまとめてみることにしよう。

人称詞は大きく分けて、自称詞、対称詞、他称詞と分けられるということは、先にも述べた通りであるが、ここでは、「自称詞」と「対称詞」だけを調査対象にしている。但し、本稿では、親族名称や職位名など、普通名詞を利用した人称詞は対象にしない。

この中で、先ず、「自称詞」について考えてみよう。「自称詞」としては、「わたくし」「わたし」が、男女共通に最も標準的に用いられている。男性よりは女性のほうがもっと幅広く使っているが、これは、男性専用語として用いられている「ぼく」「おれ」があるからであろう。この他に、「じぶん(自分)」「わし」などがあり、女性の場合は「わたし」の変形の「あたし」を使う人も結構みられる。

「じぶん」を男性専用の自称詞と扱っている論考もあるが4、本稿でのアンケート調査の結果によれば、必ずしもそうではなく、非常に地域の影響を受ける例であることが分かる。つまり、関西地域などでは、男女関係なく、対称詞としてもよく用いられている。かなり興味深い結果であり、このような「人称詞と方言との関連」については、今後の課題として残しておきたい。

これらの人称詞について、小林美恵子(1997)は、およそ次のように述べている。 自称詞はまず、該当場面がフォーマルか、インフォーマルかによって、使い分けられる。フォーマルな場面であればあるほど「わたくし」「わたし」をよく用い、「おれ」「あたし」などはインフォーマルな場面、それも大体同等か目下の人を相手にしてしか用いられない。「ぼく」はちょうどその中間的な位置を占めているので、その使用範囲も一番広いと言える。年齢的に言えば、若い年代の女性が「わたし」よりは「あたし」を、年配の男性が「おれ」よりは「ぼく」を、よく使う傾向が見られる5。 この中で、特に注目したい自称詞が、「ぼく」と「おれ」である。これは、これから、

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論考を進めていく上で、主に取り上げるテーマであり、「ぼく」と「おれ」についてのこの調査結果は、改めて論じたいと思う。(2.2節参照)

次に「対称詞」においての日本語の特徴について考えてみよう。代表的な対称詞としては「あなた」「あんた」「おまえ」「きみ」などがある。日本語では、対称詞をできるだけ明示しないようとする傾向がある。文脈で分かる限りはなるべく省略する。特に目上の人に対して発話するとき、対称詞をあまり頻繁に用いることは失礼に感じる場合が多いので、相手が自分と同輩、または目下の場合にのみ用いる事が多いのである。一般的に目上の人に対しては、大体「親族名称」「姓+サン」「職位名」などが対称詞として使われている。 小林(1997)のアンケート調査によれば、「対称詞」の中で、「あなた」「あんた」は主に女性が使っているが、「あなた」は、フォーマルな場面で用いられ、「あなた」の変化形の「あんた」はインフォーマルな場面で目下にのみ用いられる。また、「おまえ」「きみ」は男性専用語として対等または目下に対してのインフォーマルな場面でよく用いられるという6。

以上、「人称詞、自称詞、対称詞」という名称の定義から、日本語の人称詞にはどんなものがあるのかについての概略を、先行研究に基づいて検討した。

1.2

日本語の人称詞は、西欧の諸国語の人称代名詞とはその性格的な面で随分違ってくることは1.1節でも少し触れたが、ここでは、具体的に日本語の人称詞が持つ特徴について述べていきたいと思う。日本語では、いわゆる人称詞というのが完全には発達しておらず、様々な表現を用いて人称を表現しているのが、一番大きい特徴と言える。 「わたし、ぼく、おれ」などのように自称を表すもの、「あなた、きみ、おまえ」などのように対称を表すもののほかに、本来は、人称とは関係がないが、場合によって、話し手、聞き手を指せる語彙も数多くある。 もともと、日本語の人称詞は絶対的な人称を表すというより、相手に対する自分、自分に対する相手や第三者の関係を表す待遇的役割を担っているのである。これを、幾つかの例を通じて観察してみよう。

日本語の人称詞が持つ待遇的役割

(1) 「そりゃそうよ。お母さんね、結婚式でみんながどれくらいあんたの美貌に驚く

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かと思うともうワクワクすんのよ」(母親⇒娘)

(内館牧子『…ひとりでいいの』)

(2) 「おまえも塾か」「ピアノの先生」「パパ一人おいてきぼりか」(父親⇔娘) (森瑶子『女盛り』)

(3) 「お父さまこそ食べ過ぎ。コレステロールの取りすぎです」「誰もおまえにめんどうはかけんよ」「いい人がいらっしゃいますものね」「おまえなんぞ栄養失調で倒れても見てくれる男なんぞおらんだろう」「一人だけいます」「へえ、そうか?」「お父さまよ」(娘⇔父親) (森瑶子『女盛り』)

(1)は母の娘に対する発話で、自称詞として「わたし」「あたし」などを使わず、呼称としての親族名称「お母さん」をそのまま用いている。ここで、注目したいもう一つは、親族名称といっても、名称だけで使う「父、母」や「祖父、祖母」は使わず、必ず相手が自分を呼ぶときの、呼称としての親族名称を用いるということである。例えば、「母親」を表す呼称には、「おかあさん」「かあさん」「かあちゃん」「ママ」など、いろいろな呼び方があるが、話し手はこの中から必ず自分が聞き手から呼ばれている語を選ぶのである。この現象からも、日本語の人称詞が客観的自分、客観的相手を表すより、お互いの関係を重要視した、その待遇的役割を果たしているというのが分かる7。同じことは次の例からもいえる。

(2)の娘はまだ中学生で、この父親は普段、娘から「お父さん」でも「おやじ」でもない「パパ」と呼ばれている。よって、自称表現として使うときも自分が普段呼ばれている呼び方を用いている。

(3)の例は自称ではなく、対称表現として親族名称が使われているケースで、この会話の親子は、二人ともかなり年輩の人である。話し手が聞き手に対しての敬意度を高めれば高めるほど、つまり、敬語が多用されればされるほど、発話の中で相手のことを指すときに、直接的な人称詞を用いるのはなかなか難しい。それも日本語人称詞の特徴の一つだと言えるが、日本語には、目上の人に対し、敬意を込めて、しかも幅広く使える対称詞は、皆無に近い。

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このように、日本語の人称表現の一番大きい特徴は、直接的な言及をできるだけ避けて、普段、名称として使われている職位名や職業名、特に呼称として使われている親族名称などを、そのまま人称詞として用いようとする傾向が強いのである。

さらに、日本語は、お互いの関係や双方が置かれた状況によって、述語の待遇表現と共に自分や相手を示す言葉が変化し、その「使い分け」においても、人によって、地域によって、年齢によって、時代によって大きな差が出てくる。このような人称表現においての日本語の特徴が、日本語の人称詞と西欧諸語の人称代名詞の違いを示す、大きい原因となっていると考えられる。

1.3

日本語の特徴の中で、最も代表的なのが、「女性語」「男性語」の存在である。世界諸国語の多くに、「女性がよく使うことば」「男性がよく使うことば」はいろいろとある。しかし、日本語ほど、その使い分けがはっきりしている言語も希である。その例を韓国語にとってみよう。同じ漢字文化圏だった歴史的なつながりもあって、読み方・語順など、似ているところが多いので、両国語の比較・対照の研究は盛んに行われ、かなりの進歩を見せている。にもかかわらず、両国語の性差についての研究があまり進んでいないのは、韓国語では日本語のような著しい「女性語」「男性語」の例があまりないからと言えるだろう。 このような日本語の特徴の中でも、特に性別による人称詞の使い分けは顕著である。「女は‘わたし’を使う、‘ぼく’を使ってはいけない」ということが、はっきり文法の一部として存在していて、外国人に日本語を教えるときも、「日本語の自称詞には、‘ぼく’と‘おれ’、‘わたし’などがあって、‘ぼく’と‘おれ’は男性だけが使うので注意すること」と教育し、試験問題にさえ出題されるのである8。一方では、日本語の自称詞・対称詞は中性化していくとの意見もあるが9、まだ、これと言えるほどの変わった現象は見えておらず、日本語での「女性語」「男性語」の傾向は未だに根強くその座を守っている。それでは、日本語の人称詞、その中でも自称詞・対称詞を、一つ一つ、「女性語」「男性語」の観点から改めて考えてみよう。

女性が用いる自称詞には「わたくし、わたし、あたし」などがあって、この中の「あたし」は女性専用語といわれ、くだけた場面でよく用いられるという

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女性語と男性語

。男性が使う自称詞

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には、「わたくし」「わたし」の他に、男性専用語の「ぼく」「おれ」「わし」などがある。 この中で、男女共に標準的によく用いられるのが「わたし」である。女性の「わたし」の方が男性の「わたし」より使用の幅が広いのは知られている通りだが、女性が使う「わたし」と、男性が使う「わたし」は、確かに待遇価値が違う。つまり、同じ「わたし」といっても、女性が使う場合の方が丁寧度が低いのである。たとえば、ある場面である男性が自称詞を「ぼく」-または「おれ」-から「わたし」に入れ替える必要性を感じるならば、同じ状況で、女性は普段使っていた「わたし」の代わりに何か他のもっと敬意度の高い自称詞-「わたくし」など-を用意しなければならない。このような待遇価値の違いからも、日本語の人称詞には「女性語」、「男性語」の区分があるということが分かる。 しかし、この待遇価値の階級に何らかの変化があるのではないかという疑問がある。自称詞「わたし」を、「女性語」の視点からの待遇価値に基づいて、観察してみよう。男性より、女性の方がもっと広い範囲で「わたし」を使っているのは前述の通りである。それは、男性専用語の「ぼく、おれ」などがかなり幅広く用いられているという現状から見ても、当然のことだろう。(2.2節参照) 女性は自称詞の使用において、男性より選択肢が少ないので、その分、女性が用いる「わたし」は文体を選ばず、丁寧体とも普通体ともよく使われるのである。

しかし、これに関連して、女性がよく使う「わたし」と、その変形の「あたし」についての面白いアンケート調査結果がある

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。このアンケートの調査結果によれば、女性の自

称詞「わたし」と「あたし」を、場面のフォーマル、インフォーマルの程度を基準にして使い分ける思考はもう希薄である

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。特に20代では年上の相手にも「わたし」と同様に「あ

たし」も用いるなど、自称詞が、待遇価値という基準にとらわれない、自由な意識で用いられるようである。

この結果から見れば、女性が用いる自称詞は、その待遇的な意味はもう希薄になって、「絶対的な個を表す」自称詞へと変化してきているのではないかと思われる。すなわち、自称詞の選択において、場面と聞き手を重視してことばを選ぶよりは、話し手の年齢や出身地などがことば選びにかなり影響を及ぼすということである。これは非常に興味深い結果である。なぜならば、今までの各人称詞は、待遇価値によって階級を持ち、その階級を基準にして使い分けられてきた。しかし、この調査の結果は、その境目がかなり緩んできているという証拠を示しているのである。

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このような変化は女性の自称詞だけの現象なのだろうか。男性の自称詞「わたし」「ぼく」「おれ」などにも、この傾向は現れているのではないか。これに関しては、本稿の二章で、男性専用の自称詞「ぼく」と「おれ」を中心にして、関連している諸問題を検証していく。

対称詞について少し触れてみよう。対称詞としては、「あなた」「あんた」は女性用で、「きみ」「おまえ」は男性用だという思考が一般論のようだが、必ずそうとは限らない。このような調査結果は、今までの先行調査がほとんど共通語(東京弁)を基準にして行われてきたのと強い関連性がある。何故かといえば、特に対称詞の使用においては、性別や場面のフォーマル度よりも、話し手がどこの地域の出身なのかが大きい要因として作用していると思われるからである。関西地域を中心に行った本稿でのアンケート調査の結果を見ても、それは明らかである。関西地域で、特に家族内の人称詞の使用実態を調べてみると、先行調査の結果との差は著しい。関西では、お父さんから子供への対称詞として、そして夫婦の間での対称詞として、「あんた」が何より頻繁に使われている。全般的に「あなた」より「あんた」の使用が目立つ。女性の使う「おまえ」も結構耳にすることができる。先行調査の結果などではかなりの割合を占めている「きみ」は、実際あまり使われていない。「あんた」の具体的な例を、東京を背景にしている現代小説と、神戸を背景にしている現代小説と分けて、いくつか例を取りあげてみよう。 まず、東京を背景にしている小説である。

(4) 「じゃ聞くがね、君の初恋はいくつだった?」「だって私たちの頃は片思いのプラトニックな」…「きみがまずあの子に心を開かないからだよ。そうは思わないか」(夫⇔妻) (森瑶子『女盛り』)

(5) 「俺の顔も見れんのか。亭主の顔も見れんようなことをおまえはして来たんだな…」(夫⇒妻) (森瑶子『女盛り』)

(6) 「生意気な口のききかたするなあ、おまえ」(父親⇒息子) (森瑶子『女盛り』)

この三つの例文はすべて家族内での会話で、夫の妻に対する対称詞は「きみ」か「おま

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え」に統一されている。父親の息子に対する対称詞も「おまえ」で、ここではとりあげていないが、娘に対しても同じである。東京を中心としている関東地域では、家族内での対称詞は「おまえ」を一番よく使っているということがいえる。少し、違う側面から、もう一回見てみよう。

(7) 「私、私杉崎さんと結婚するから。すっごくいい人だし、大人の男だし、経済力もあるし、だいたい、あんたになんだかんだいわれたくないわ!私と杉崎のことは私と杉崎のことで、あんたには関係ないんだから!」「あそ、悪かったね。でもさ、あんたも、いいかげん結婚して人にしあわせにしてもらおうっていう他力本願やめたら」(年上の女性⇔青年) (北川悦吏子『ロングバケーション』)

(8) 「俺、あんたの子どもでも弟でもないんだから」…「わかったよ。もう、あんたのことなんか知らないから」(年上の女性⇔青年)

(北川悦吏子『ロングバケーション』)

この二つの例文は東京に住んでいる若者を中心にした小説の一部分で、男の人が「あんた」を用いている例を取ってみた。両方とも殆ど喧嘩に近い会話で、31歳の女性と7つ年下の青年との話し合いだが、男性専用語の対称詞「きみ、おまえ」を使いにくい関係である。もし相手が年下の女性ならば、たぶん「きみ」や「おまえ」などが用いられただろうと推測できる。

一方、関西地域を舞台にしたものには、以下のようなものがある。

(9) 「あんたの時計には違いないけど、お母ちゃんが金時計してるのを、近所の人は知っとるから隠されへん。」(父親⇒息子) (妹尾河童『少年H』)

(10) 「そうやけど、この防毒マスクは本当に毒ガスに効くんやろうか?あんたはどう思う?」(妻⇒夫) (妹尾河童『少年H』)

これは作家の少年時代がそのまま小説にされた作品で、どの作品よりも実際関西(神戸)

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で使われている会話文に近いと思われたので、とりあげた。対称詞「あんた」の使用率は、他のどの地域を舞台にした現代小説より高い。

このように、日本語の人称詞は、「場面」だけではなく、地域、性別など、様々な条件の影響を受けている。その条件一つ一つの積み重ねをもとにして、我々は、人称詞を使い分けているのである。

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人称詞の待遇価値の変化

2.1

歴史的観点から見る「敬意漸減」の現象

日本語において人称詞は、有史以来、次々と目まぐるしいほど交替している。1.2節で述べた通り、日本語の人称詞の一番大きい特徴と言えば、場面や聞き手を重視する、待遇的役割が強いということである。だからこそ、日本語の人称詞の変化を観察するためには、敬語、即ち敬意度との関連を述べない訳にはいかない。よって、ここでは、歴史的に、日本語の人称詞が、どういう変化の傾向を見せてきたのかを、その待遇性と関連して探ってみることにする。

歴史的観点から見た人称詞の変遷についての問題を、初めて詳しく論じたのは佐久間鼎(1927)である。その研究内容には、今まで、日本語の人称詞の変遷を考える際に、最も基本になるといわれてきた、敬意度との関連が指摘されている。

話し手が自分を指す代名詞はどれも、新しく使用され始めた時は、相手に対して自分を卑下する意味内容を持っているが、長く使用されるにつれて、段々と自分が相手に対して尊大にかまえる気分を表わすようになり、ついに相手を見くだす時にだけ使えることばに変化し、一般の使用から脱落していく

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。(p.142)

例えば、相手を指す言葉としての対称詞の中で、「てめえ」「きさま」などは、元来は相手を敬う良い言葉であったのだが、それが使われるにつれて、相手を低く見る言葉となり、ついには相手を罵り、いやしめる悪い言葉か、極めて親しい交友関係にのみ許される、ぞんざいなものになってしまった。

本稿で主に取り扱いたいと考えている自称詞「ぼく」の場合を、例としてあげてみる。「僕」は古代から主として漢文の中で用いられた文章語であり、学者や知識人のことばの中でよく見られ、強い謙譲の意識を持って使用された

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。これが、江戸時代には武士の間

で、明治になって書生間で、「きみ・ぼく」の対使用の形として流行するにしたがって、その待遇価値が段々低くなってきたのである。そして現在では、目上の人に対する時や、改まった場合には使わない方がよい語とされている。

昭和二十七年五月に国語審議会が発表した『これからの敬語』を覗いてみよう。その中

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の「自分を指すことば」の第三項に、『「ぼく」は男子学生の用語であるが、社会人となれば、あらためて「わたし」を使うように、教育上、注意すること』とあり、また「相手を指すことば」の第三項には、『「きみ」「ぼく」は、いわゆる「きみぼく」の親しい間がらだけの用語として、一般には、標準の形である「わたし」「あなた」を使いたい……』というようなことが述べられてある。これを見ても、「ぼく」が相手に対し少なくとも丁寧なものの言い方でないと受け取られていることは明らかである

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このように、日本語の人称詞が敬語の変遷と共に、着実にその待遇価値を変えているのは確かである。また、古代から現代までの長い歳月の人称詞の変遷を、太い茎だけ取ってみれば、「敬意の漸減」という現象は、否定できない人称詞の一つの傾向である。 これから、この論考を進めるにおいても、時代別小説などの例を利用し、人称詞の変化に注目して検討していきたい。しかし、はじめに前提しているように、本稿では研究範囲を「現代日本語」と絞って、あくまでも今現在使われている人称詞を焦点として、社会言語学的観点から論考を進めていく。つまり、歴史的な観点から行われてきた先行研究とは違う視点からスタートするのであり、当然、その解釈も変わってくる。

調査方法としては、1910年前後の近代小説と1980年前後の現代小説を、作品の中での人称詞の使用実態に注目し、比較・対照している。比較の対象として、「近代小説」と「現代小説」という線を引いた理由について、少し述べておきたい。

1945年の第二次世界大戦を仕切りにして、日本社会には、西欧の民主主義思潮及び文化が一気に流入されるようになった。そして、このような急変の波の中で、日本語の言語運用全般に、著しい変化が起こったのは言うまでもない。したがって、1945年(第二次世界大戦)以前の近代と、それ以後の現代という両時代

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の小説を対照してみれば、現代日本語の運用

全般の変化と共に、敬意と関連する人称詞の変化も明らかにできるのである。さらに、1910年前後は言文一致主義が盛んであったため、会話体でよく見られる「自称詞」と「対称詞」を比較するには、とても適合な対象となるだろう。

2.2

すでに、言及している通り、本稿で一番注目したいのは、男性専用の自称詞といわれる「ぼく」と「おれ」の待遇価値の変化である。ここでは、その変化を比較する方式として、

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男性自称詞の待遇階級の崩壊

「近代小説」と「現代小説」の中で、幾つかの具体的な資料を提示する。

その内容は次の通りである。現代小説8作品と近代小説8作品で、各作品には、分かりやすくするためにアルファベットのタイトルを付けた。表は両方とも、早い年代からの順序で並べている。

現代小説としては、

A B C D E F G H

近代小説としては、

a b c d e f g h

本稿においては、検索を通じた出現回数調査を主たる目的としているために、作品の選抜には十分配慮した。とりわけ、正確なデータの収集のために、機械可読な、電子ブックのような資料を利用している。やむを得ず、非常に選択の幅が狭まっていたともいえるだろう。その内、今回の調査で選択基準としたのは、第一、「会話体」が中心になっていること、第二、できるだけ、「近代」と「現代」との年代が隔たっていること、第三、重要登場人物が男性であること、などであった。

「会話体」を中心とした作品というのは、いうまでもなく、「人称詞」という範囲自体が、会話体だからこそ、その役割を果たすことばだからである。しかも、社会言語学的立場から見て、実際、社会全般で使用されている表現に一番近いと認められる用例でなければ、調査対象としての意味がないからである。

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作品名

『にごりえ、たけくらべ』 『破戒』 『三四郎』

『歌行燈、高野聖』 『雁』

『こころ』 『友情』 『雪国』

作家

樋口一葉 島崎藤村 夏目漱石 泉鏡花 森鴎外 夏目漱石

武者小路実篤 川端康成

年度 1895年 1906年 1908年 1910年 1911年 1914年 1919年 1935年

作品名

『冬の旅』 『花埋み』

『ブンとフン』 『二十歳の原点』 『太郎物語』 『一瞬の夏』

『女社長に乾杯』

『新橋烏森口青春篇』

作家

立原正秋 渡辺淳一 井上ひさし 高野悦子 曾野綾子 沢木耕太郎 赤川次郎 椎名誠

年度 1966年 1967年 1967年 1968年 1978年 1981年 1984年 1991年

また、できる限り、年代の幅を広げるというのは、できるだけ、著しい変化を確かめるためであり、男性中心の登場人物を選んだのは、本稿の主たる比較対象としたものが、「ぼく」と「おれ」だからである。

それでは、まず、「近代小説」と「現代小説」の比較に入る前に、男性自称詞の「ぼく」「おれ」について現代の日本語学者の間で広く認められている一般論と、今から約70年位の時代差のある近代小説での使用例とを対照し、検討してみよう。短い時代差ではあるが、どの程度の変化が見えてくるのかを確かめることができるだろう。

まず、自称詞「ぼく」「おれ」を、現在最も一般的な自称詞といわれる「わたし」と関連して考えてみたい。「わたし」は、近代小説の中では、どの位の位置を占めているのか。もちろん、男女共用の、一番代表的な自称詞であるので、広い範囲を占めているのは当然である。しかし、調査対象とした小説の主人公が男性の場合が多かったという理由もあって、「わたし」の代わりに「ぼく」の使用例が多い作品がかなりあった。夏目漱石の『三四郎』には、「わたし」39件に対し、「ぼく」が78件みられ、2倍「ぼく」のほうが多かった。森鴎外の『雁』にも、「わたし」31件、「ぼく」47件、その上「おれ」21件で、「ぼく」「おれ」をあわせるとかなりの差がつく。重要登場人物に男女が混じっている武者小路実篤の「友情」は、「わたし」66件、「ぼく」76件で、この内、女性によって用いられた「わたし」をのぞけば、やはり男性の場合は、「ぼく」を好むというのが分かる。登場人物として男性が中心になっている作品の中で、「わたし」が自称詞の大部分を占めているのが夏目漱石の『こころ』であったが、これは二つの原因が考えられる。まず、内容の半分以上が「手紙文」という特徴から、どうしても「会話体」とは言えず、「文章体」のことばになってしまうということ。さらに、重要登場人物が「先生と私」と設定されていることがもう一つの原因としてあげられる。「先生」に対する自称詞としては、「ぼく」より「わたし」のほうが良いと思われていたようである。これは、後で「ぼく」の待遇価値の変化を検討するのにも、一つの良い例になる。(2.2節参照)

また、ここで注目したいのが、前記のアンケート調査

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で幅広く回答されていた「おれ」

の使用例で、これを二つの観点に分けて検討してみよう。

その一つ、小林(1997)のアンケート調査によれば、現代では、くだけた場面で、同輩または目下、特に女性に対して「おれ」を使う傾向が多いという。しかし、今回の近代小説の調査によると、「おれ」の使用例は若干変っている。同年代の友達の間や女性に対しても、

16

大抵「ぼく」を使い、「おれ」を用いるのは家族内に限られている。森鴎外の「雁」、夏目漱石の「こころ」など、「ぼく」より「おれ」の使用が目立っていた作品ほど、家族内での使用がほとんどである。父が息子に、兄が妹に、特に夫が妻に対してよく用いているが、友達の間で用いる例はあまりない。武者小路実篤の『友情』には、男友達の間を中心に「おれ」が用いられた例があるが、これも「ぼく」76件に対し、「おれ」は7件だけである。しかも、その中では、

(11) 「杉子さん、あなたは自分をあざむいているのですよ。あなたの心はきっと神を求めていらっしゃる。」(青年⇒同年齢頃の女性) (武者小路実篤『友情』)

のように、普段は「さん付け」できちんと敬語を使っている相手に対して、自分の雑記帳に書く時は、(12)のように、思い切りぞんざいな表現と一緒に「おれ」を使い、その感覚的な差異をはっきり見せている。

(12) 「杉子よ、杉子よ、俺の病気の時はどうか笑わないでくれ、たのむ、お前は親切な、人のいい女じゃないか。お前だけは笑うのはよしてくれ。」(青年の独白) (武者小路実篤『友情』)

『友情』は会話の大部分が友達の間でのくだけた場面で、程度の高い敬語はほとんど省略されている文体なので、もし現代小説ならば、大抵の自称詞としてきっと「おれ」を使うはずであろう。明らかに、前記したアンケートでの範囲よりは狭い範囲で使われているのである。以上から見て、「おれ」の使用が現代に入って急速に増えてきたという推測が可能である。

2.2.1 「ぼく」から「おれ」への変化

それでは、ここからは近代・現代小説の資料を利用して行った調査の数値化された結果をもとに、論を進めていきたいと思う。

まず、本当に男性専用自称詞は「ぼく」から「おれ」へと変化しているのかを確かめるために、2.2節で提示した近代小説8作品、現代小説8作品すべてから、「ぼく」と「おれ」

17

が何回使われているのかを調べた。その結果を【表1】に示している。そして、この傾向を見やすくするために【図1】に百分率として表した。

【表1.小説から見た「ぼく」と「おれ」の出現回数】

<現代小説>

ぼく おれ A 102 336 B 7 12 C 913D 54E 444119F 35166G 31 45 H 286 44 総計 919739 <近代小説>

ぼく おれ

a 7 35 b 86 17 c 785d 31e 4721f 229g 76 7 h 11 1 総計 310116     【図1. 小説から見た「ぼく」と「おれ」の出現率調査】

《現代小説》

   H   G   F  E   D   C   B   A0%50%100%     《近代小説》

  h  g  f  e  d  c  b   a0%50%100%ぼくぼくおれおれ

【表1】の総計だけを見ても「おれ」の使用率の増加は確実である。もちろん、どうしても現代小説の方に会話体が多いので人称詞の使用量そのものが増えているのも事実である。また「ぼく」の使用率も高くなってはいるが、どうみても「おれ」の増加率がかなり上である。それは、【図1】の百分率のグラフを見ても分かる。全般的に近代小説では「ぼく」の使用が「おれ」より多いのだが、現代小説では「おれ」の使用が「ぼく」の使用率を越えているのが最も多い。

近代小説の中で、「おれ」の使用が「ぼく」より多い作品は二つである。一つは、樋口

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一葉の『にごりえ、たけくらべ』であるが、これは女性作家の、女性を中心にしている作品なのが原因だろう。そのため、話し手は女性が多いのである。2.2節で述べた通り、近代小説での「おれ」の使用は殆ど家族内に限られていたのである。

そしてもう一つの例外作品が、夏目漱石の『こころ』である。これは「先生と私」という二人の男性を主人公にしているが、本文の大部分が手紙形式になっているし、現代とは違う師弟関係においての丁寧さ、小説の中での先生という人物の性格、などを考慮してみたら、男性専用自称詞の「ぼく」の代わりにごく丁寧な自称詞の「私」を用いているのも理解できる。しかし、この作品で、なぜ「おれ」の使用は「ぼく」より多いのかと言えば、家族内での男性の自称詞は「おれ」だという観念が強いということなのであろう。実際「こころ」の中でも、弟子には「私」を用いる先生が自分の妻には「おれ」と「おまえ」を使っている。弟子の父親も、息子の彼との会話では「おれ」を用いているのである。 もちろん、小説というのは、作家によって、登場人物によって、随分言い方が変わってくるものだから、小説からの結果だけで判断して言い切ることは避けねばならないだろう。 しかし、この検索結果から見れば、確かに近代小説よりは現代小説の方に、「おれ」の使用が増えてきていると言うことができ、非常に興味深い現象であるといえよう。

今までの先行研究では、「おれ」よりは「ぼく」の方が使用範囲の面で優勢だという意見が一般的であった。しかし、今回の調査からは、一番幅広く使われると認識されている「ぼく」よりも「おれ」の方の使用頻度が上がってきているのがはっきり分かる。 この結果から予測されるのが、「ぼく」と「おれ」の使用範囲についての認識の変化である。「ぼく」に比べれば「おれ」は、家族内などのごく親密な関係か、わざと自分を優位にしてみせる場面以外には使われない、極めてぞんざいな自称詞として認識されてきたのだが、段々「おれ」の使用範囲が広がってくるにつれて、「おれ」が持つぞんざいなニュアンスは薄くなってきたと考えられる。このような現象は「おれ」についての認識の変化だけではなく、「ぼく」についての認識の変化と一緒に起こるのは当然のことで、『男性専用自称詞の「ぼく」が「わたし」「わたくし」より丁寧ではないので、フォーマルな場面では「ぼく」はできるだけ「わたし」「わたくし」に替える必要性がある』(金丸芙美1993)との認識が段々減少している証拠として受け入れることができるのではないか。 これと関連して、先行研究のアンケート調査内容の中に面白い結果があった。

…自称代名詞を用いているのは50人の男性発話者のうち23人だけである。このうち、

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「わたし」のみを用いている話者が4人、「おれ」のみが8人、「ぼく」のみが8人で、二つ以上の語を場に応じて使い分けている話者は3人しかいない…、男性のほうが女性より、固定した一語を自称として用いる傾向が現れている

18

。(p.124)

この調査結果は果たして何を表しているのだろうか。それは、何よりも我々が一般に認識している「わたし」「ぼく」「おれ」の丁寧度やニュアンスからの階級が、段々薄くなってきていることを意味しているのである。それで、「わたし」「ぼく」「おれ」のうち、何を用いるのかという選択は、もう、今自分が置かれている場面を丁寧度やニュアンスの階級にあわせるような社会的基準ではなく、ただ個人による問題として委ねられてしまっているのである。

すなわち、男性の自称詞が「ぼく」から「おれ」へ変化していくという今回の調査結果も、本稿では、「ぼく」と「おれ」の使用範囲についての認識の変化から来ていると述べているが、果たして、その認識の変化がどこから来ているのかを探っていくと、このような各自称詞の待遇価値においての階級区分が薄くなっているという結論にまで辿り着けると考えられる。

この説はもちろん、前記している『歴史的観点から見る「敬意漸減」の現象』とは全く相通しない意見であるが、はじめにも述べている通り、本稿は日本語の人称詞の変化を考察することで、日本語史という巨視的視点から把握するよりは、現代日本語の範囲内で実際目に見えている変化を、実際用いられている例を通じて、できるだけ社会言語学的視点から微視的に取り上げて議論するのが目標である。だからこそ、論議の価値があると考えるのであり、よって、ここでは、その論理のギャップには触れないことにする。 それでは、これからこの仮説を裏付けるもっと具体的な調査結果を提示しよう。

2.2.2 「ぼく」と「おれ」の丁寧体率

「ぼく」と「おれ」は、その待遇価値の階級が違う。この一般論を裏付けるのが文末語尾である。「おれ」より待遇価値がある-即ち、丁寧度が高い-と思われている「ぼく」は、「~です、ます体」とのつながりが強い。もちろん「わたし」よりは丁寧度が落ちるので、「普通体」とのつながりもかなり高い。つまり、どちらとも問題なくつなげられるのが「ぼく」である。これに比べて、「おれ」は非常にインフォ-マルな場面でしか使えない、丁寧度の低い自称詞なので、「~です、ます体」とは一緒に使いにくいというのが先行調査のい

20

うところである

19

したがって、丁寧体と自称詞の「ぼく」「おれ」との関連性を調べるのは、これまで本稿で言い続けてきた「ぼく」と「おれ」の、使用範囲の変化、ひいては待遇価値の変化を証明する良い例になると思う。よって、ここでは2.2節で提示した、近代小説8作品と現代小説8作品のすべての会話文の中で、「ぼく」と「おれ」が含まれている文を取りあげ、その文章の丁寧体率を調べてみた。その結果は次の通りである。

【表2.「ぼく」「おれ」の入る文の丁寧体率】

<現代小説> (丁寧体文/全体文)

ぼく おれ A 81/102 2/336 B 6/7 0/12 C 6/92/13D 2/50/4E 140/4440/119F 12/3512/166G H 総計 16/31 92/286 355/9190/45 2/44 18/739 <近代小説>

ぼく おれ

a 0/7 0/35 b c 18/86 19/780/17 0/5d 0/30/1e 2/470/21f 0/20/29g 18/76 0/7 h 0/11 0/1 総計 57/3100/116この結果から分かる重要なポイントは、0件だった「おれ」+「~です、ます体」の例が、ごく少数ではあるが、確かに現れているということである。ここで提示している作品は現代小説といっても少し古いことから、もしもっと最近の作品から用例を取ったならば、もっと多数の例が見られると予測できる。今回は数値化することが出来なかったが、最近の、とりわけ会話文中心の現代小説を読んでみると、「おれ」+「~です、ます体」は著しく目立つ一つの現象なのである。

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【図2.「ぼく」「おれ」の入る文の丁寧体率】

『ぼく』の入る文の丁寧体率9080706050403020100A・aB・bC・cD・dE・eF・Gf・gH・h9080706050403020100『おれ』の入る文の丁寧体率百分率百分率作品別現代近代 【表2】をグラフ化したのが【図2】である。【表2】では近代小説の表と現代小説の表の二つに分けたが、【図2】は「ぼく」のグラフと「おれ」のグラフに分けて提示したが、変化の傾向を一目で分かるように、百分率を利用して示している。この二つのグラフから見れば、先ほど述べた通り「おれ」+「~です、ます体」の例が現れ始めているだけではなく、「ぼく」+「~です、ます体」の例もかなり増えているのが分かる。 これは何を意味するのであろうか。今までの調査の結果に基づいて判断してみれば、確かに「おれ」はその使用範囲を広げている。しかし、「おれ」の使用範囲が段々広がり、「ぼく」と「おれ」の待遇価値の壁が薄くなっているとはいえ、それが「ぼく」の使用範囲の縮小を示しているとは、決して言えない。【図2】の二つのグラフの結果はそれを証明している。 つまり、「ぼく」+「~です、ます体」の例が増えているという調査結果は、決して「ぼく」の使用範囲が狭まっているのではないということを示しているのである。却って、この現象から見れば、男性自称詞の中で最も待遇価値の階級の優位を占めていた「わたし」の領域に、「ぼく」が少しずつ侵入しているとも推測できるのではないか。そして、男性自称詞の「わたし」「ぼく」「おれ」は、その「待遇価値の階級」という壁を崩し、今までの「敬意度」という上下の基準だけではなく、「地域や個人、年齢など」の基準によっても使い分けられるようになってきているといえるだろう。 22A・aB・bC・cD・dE・eF・fG・gH・h作品別現代近代2.2.3 「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用

「ぼく」と「おれ」の使用実態を把握することにおいて触れておきたいのが、「ぼく」「おれ」に対応する対称詞「きみ」「おまえ」である。対称詞として使われている語には、これ以外にも「あなた」「あんた」などがあるが、とりわけ「きみ」は「ぼく」と、「おまえ」は「おれ」と一緒に用いられる場合が多く、対使用されると認識されている。

「ぼく」と「きみ」が対をなす自称・対称として用いられ始めたのはその歴史も古い。これまでは漠然と明治期に東京で使われ、書生語あたりから発生したと思われていたが、最近、小松寿雄(1998)のように、江戸末期に「ぼく」と「きみ」の対使用がすでに見られていたという研究発表もある

20

このように、「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用はもう様々な論考から証明されてきた。ここでは、その対使用の実態を表とグラフでまとめてみた。

まず、これらの対使用の定着を確認するために、前記した資料16作品の中から、「ぼく」と「おれ」の使用が特に目立つ近代小説四つと現代小説四つだけを選んだ。その八つの作品から「ぼく」「おれ」「きみ」「おまえ」の出現回数を取り、表にしているのが下の【表3】である。さらに、その結果を自称詞・対称詞別に百分率にし、傾向を分かりやすく散布図としたのが【図3】である。

【表3.小説での「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の出現回数】

近代b『破戒』 近代g『友情』 近代a『にごりえ、たけくらべ』近代f『こころ』 現代E『太郎物語』 現代H『新橋烏森口青春篇』 現代F『一瞬の夏』 現代A『冬の旅』

ぼく 86 76 7 2 444 286 35 102きみ 94 53 9 19 70 20 35 121おれ おまえ 17 17 7 10 35 91 29 32 119 32 44 12 166 25 336 153【図3.小説での出現率からの「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用率】

ぼくおれきみおまえ

100806040200012342356789

この散布図から見ると、確かに「ぼく」と「きみ」の曲線、「おれ」と「おまえ」の曲線が似たような形をしているのが分かる。作品7番の出現率が「ぼく」「おまえ」「きみ」「おれ」の順番になっているだけで、全般的に「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用は定着しているとみてもよさそうだ。

この結果をもう少し細かく分類してみよう。この「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用の傾向が、現代日本語の枠内で、何らかの変化を示していることを確かめるために、今度は近代小説と現代小説に分けて調査してみた。その結果が【図4】と【図5】である。

【図4.近代小説から見た対使用率】 【図5.現代小説から見た対使用率】

《近代小説》ぼくおれきみおまえ《現代小説》ぼくおれきみおまえ1008060402000 1008060402002468100246810このグラフを【図3】と比べてみよう。基本的には似ている曲線を見せているが、よく観察してみると、やはりその対称度の違いが見えてくる。 この対称度の違いをもっと分かりやすくするために、各々の散布図を「ぼく」と「きみ」のグラフ、「おれ」と「おまえ」のグラフに分けて別々に示す。それが【図4-1】と【図4-2】、【図5-1】と【図5-2】である。 こうしてみると、時代別に変化している「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用の傾向が一目で分かると思う。 24 【図4-1.近代小説の「ぼく」と「きみ」】 【図5-1.現代小説の「ぼく」と「きみ」】

《近代小説》1008060402000 ぼく93859483きみ989292846953376《現代小説》100806040200810ぼくきみ875841446375796956444341372319802463317924617810 まず、「ぼく」と「きみ」を時代別に比べてみよう。【図4-1】が近代で【図5-1】が現代であるが、両方とも百分率を表すY/数値軸は20パーセントずつ、五つの単位に分けてある。この散布図から分かる出現率のむらを表としてまとめた。それが下記の【表4】である。 【表4.「ぼく」と「きみ」の時代別のむら】 近代小説 現代小説 20%以内 6作品 3作品 20~40% 1作品 3作品 40%以上 1作品 2作品 確かに、近代小説より現代小説のむらが大きいことが分かる。これから、「ぼく」と「きみ」の対使用において、近代小説の方がもっと安定、定着していて、これに反して現代小説の方は対使用が少なくなっているといえるだろう。 次は、「おれ」と「おまえ」の対称率をみよう。同じく、下記の散布図を表としたのが【表5】である。 【図4-2.近代小説の「おれ」と「お前」】 【図5-2.現代小説の「おれ」と「お前」】 《近代小説》100806040 20おれおまえ《現代小説》100おれおまえ9183674731946380604077819283595631214238138106356575944151702256740168826810252000246

【表5.「おれ」と「おまえ」の時代別のむら】

近代小説 現代小説

20%以内 6作品 3作品 20~40% 1作品 3作品 40%以上 1作品 2作品 この表から見れば、上記の【表4】の「ぼく」と「きみ」の例と同じく、近代小説ではきれいな対使用を見せていたのが、現代小説に入ってからはかなり乱れを見せてきていることが分かる。

これまでの結果を総合してみると、現代日本語の範囲内でも、確かに「ぼく」と「きみ」、「おれ」と「おまえ」の対使用という現象ははっきり形をなしている。しかし、これを時代別に分けてみたときには、時代の流れにつれて明らかに対称率のむらが広くなってくる傾向があるのも事実である。これは、男性専用の自称詞「ぼく」と「おれ」が、対称詞との関係において自由になっていくということを意味する。すなわち、2.2.2項での丁寧体との関連を含めて、「おれ」の使用量増加を証明する重要なポイントになるだろう。当然、一つの語がその使用環境において自由になるということは、その語の使用の幅を広げる直接的な理由になると考えられるのである。

こうして、男性自称詞の変化を、「ぼく」と「おれ」を中心にして探ってみた。狭い範囲での考察ではあるが、明らかに数値としてその違いが見える。このように、単純な出現回数から丁寧体との関連性、対称詞との対使用率など、いろいろな側面から考察してみた結果、男性自称詞も女性自称詞の「わたし」「あたし」と同じく、各々の待遇価値の階級による使い分けよりは、個人や地域の差などがより重要な要因となることが分かってきたと思う。

2.3

本稿を進めていくについて、興味深い対称詞の一つが「あなた」である。上でも少し触れているように、先行調査では、

「あなた」「あんた」は主に女性が用い、「あなた」は、フォーマルな場面で用いられ、「あなた」の変化形の「あんた」はインフォーマルな場面で目下にのみ用いられる。 という見方をよくしている

21

「あなた」の待遇価値の変化

26

しかし、このように単純に言い分けるのは非常に危ない。理由は二つある。

現在使われている「あなた」は基本的に他の対称詞とは観点の違う、独特な待遇価値を持っている。「あなた」は敬意度に鈍感な人称詞で、公的な印象を持ち、他の対称詞に比べてあまり感情を含まない傾向がある。これまでのアンケート調査からは

22

、自分の目上だ

とはっきり具体的に位置づけることができる相手には、「あなた」は使いづらいという結果が多い。しかし、実際に、広告文句や会社の自動応答システムなどでは、最高の敬語と一緒に用いられているという面もある。このような公的な場面での「あなた」は、単なる目上を示すより、その人と親密な交際のない他人を敬して遠ざける気持ちが強いのである。以上から、「あなた」は、待遇価値階級よりは親疎階級をもっと主に表しているという特徴があることが分かる。これは、他人に対する人称詞として用いられいる「おたく」に似ているところがある。話者が相手を上下関係の軸で捉える必要のない場合、つまり無色の代名詞を使いたいという気持ちのある時に用いられているのである。 これに関連して、鈴木孝夫(1973)は次のように述べている。

自分の両親、兄や姉のような、家の中のいわゆる目上の人に、「あなた」のような代名詞を使う人は先ずいないだろう。学校の先生や、会社の上役と話す時も、先生とか課長(さん)などと言って、「あなた」とは普通言わないものだ。一般に「あなた」は「きみ」「おまえ」「きさま」などに比べて、敬語とまで行かずとも、品の良いことばと受け取られているにもかかわらず、実際には目上に向かって使いにくいことばなのである。現在の日本語には、目上の人に対して使える人称代名詞は存在しないといっても言いすぎではない

23

。(p.132)

第二に、「あなた」の待遇価値の階級だけに注目してみても、確かにその敬意の程度が漸減しているのが分かる。その事実は手近な辞書からこの語をひいてみてもすぐ分かる。

広辞苑(1955) 「…(近世以来対称の人代名詞)目上の者や同輩を尊敬して呼ぶ。

…」

言泉(1986) 「…相手を敬って呼ぶ語で、対等または上位者に用いた。現在では対

等あるいは下位のものに用い、…」

このように、近世には目上の人を相手とした代名詞であったが、後期には、同輩か目下の人に向かって使われる代名詞になってしまったのである。それで、「あなた」は敬意の漸減と共に、対称詞の第一代表としての領域をだんだん失ってきている。

27

しかし、1910年前後の小説には、「あなた」を目上の人に対して使用した例がかなり見られる。近代小説からその例をいくつか取り上げてみよう。

(13) 「貴方のおっしゃるところは一々御尤もだと思いますが…」(息子⇒父) (夏目漱石『それから』)

(14) 「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうと云って、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」「あなたの希望なさるような、又私の希望するような頼もしい人だったんです」(弟子⇔先生の奥さん) (夏目漱石『こころ』)

(15) 「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃる通り。ちょっと読んでご覧なさい。」(息子⇒母親) (夏目漱石『こころ』)

上の例では、‘おっしゃる’という尊敬語の主語として「あなた」を用い、敬語と共に何の違和感もなく使っている。例(15)をみればわかるように、現代は親に敬語を使わない子供が多いのにもかかわらず、自分の親に対して「あなた」を使うのは、なんとなく無礼な気がするが、近代小説の中ではそうでもない。しかし、同じ近代小説の『雁』の中では、自分の父親に対して自称詞として「わたくし」を用いていた娘が、「あなた」の代わりに「お父さん」という呼称を使っている。やはり、若干の差はあっても、現代日本語の範囲内では、「あなた」は具体的な目上の人に使いにくいという印象が強そうである。 現在、実生活で目上の人、特に家族や親族に対して「あなた」を用いて呼びかけたり、直接言及したりすることはできない。「あなた」だけではなく、そもそも親族間で目上の人に人称詞を使う例はほとんどない。

90年代前後の小説では、このような傾向は完全に定着している。

さらに、「あなた」の変形の「あんた」という形態で、相手を非難するとき用いられる例が目立っている。「あんた」の例は、1.3節でもいくつか取り上げたが、それ以外にもある。

(16) 「あんたが忙しいのはよくわかっているわよ」(母⇒息子)

28

(ねじめ正一『本日開店』)

(17) 「あんたがたと違ってうちは田舎だから」(伯母⇒母)(ねじめ正一『本日開店』)

このような「あんた」の用例に関しては、上記の金丸(1993)では次のように述べている。 …男女共通に用いられるが、インフォーマルな場面で目下にのみ用いられ、東京では卑俗な言い方の感がある。(p.110)

やはり、「あなた」「あんた」が女性用の対称詞と断言するのは反論の余地があるのが分かる。しかし、ここでは「“東京では”卑俗な言い方の感がある」と言っているが、1.3節でも述べた通り関西ではそうとも言えないのは確かである。

このように「あんた」を含めて「あなた」という対称詞は、ほかの対称詞とは違う特徴を持っている対称詞として理解しなければならない。

29

3

人称詞と複数形の接尾辞

3.1

各複数形接尾辞の比較

日本語の複数を表す接尾辞には、「がた」「たち」「ら」「ども」などがある。そして、このような接尾辞はすべて敬語、つまり待遇ということに関係している。ここでは、今までなんとなく感覚的に使ってきたこれらの表現に対し、単純な複数形ではなく、その敬度の差異も含め、我々が気づいていなった他の機能などを改めて追究し、一緒に考えてみたい。とりわけ、前章まで考察してきた人称詞の特徴と関連し、人称詞につく複数形の接尾辞に注目していきたい。

一般に、「がた」というのは、目上の人について使う語として認識されている。しかし、実際の使用例をよくみれば、そうでもないことが分かる。単純に上下関係を決める、敬意のある接尾辞だけではなく、わざわざ「がた」を使うことによって、親疎関係の距離を調整する役割も持っている。

しかし、「たち」や「ども」は、「がた」と違って、自分の側についていうことが多いといわれている

24

。自分の側に属していなくても、話し相手よりも低く待遇していいものに

対して使い、このうち「たち」はそれほどそのもの自体を低めてはいない、やや中立的なものとなる。それに比べて、「ども」はもっと、それがついているものを低めるという機能を持っているから、自分の側についていうときは謙譲語と結びつく率が高くなる。 「ら」は「たち」と似たところがあるが、必ずしも同じとは言えず、前に来る語によっては、両方ともつけるのは難しい場合もある。ここでなにより注目したいのが、この「たち」と「ら」の関係である。実際どのような条件がこの二つの接尾辞を使い分けさせているのかを、これから詳しく探っていく。

このように、人称詞などにつける複数形の接尾辞は、辞典的な解釈でない実際の使用例から観察してみると、いままではあまり知られていなかったそれなりのルールを持っている。論考のはじめにも述べたように、本論ではなによりも社会言語学的な視点から人称詞を再考察していくのが基本方針であるので、この接尾辞に関する考察も、その観点に基づいて考えていきたい。

30

3.2

「夢たち」「ひとりぼ「こぼれ落ちる思い出のかけら達は言葉にならない切ない予感」っちのぼくたち」…

これらは、いま流行の大衆歌謡の歌詞の一部分である。すべて「たち」の入っている例だが、この歌詞の「たち」を「ら」に替えればどんな感じになるのか。人によって違うだろうが、やはりそぐわないと感じる人が多いだろう。このように実際に使われている実例を取り上げて対照してみると、特に「ら」と「たち」の違いが明らかに見えてくる。 これ以外にも、「わし」には「たち」が適当でない、「あいつら」「やつら」はいうけど、「あいつだち」「やつだち」は言わないなど、普段「ら」をつける語で、「たち」をつけられないものも結構ある。逆に、「わたくしたち」はいうが、「わたくしら」には違和感を感じる人が多い。 先生を聞き手にして発話する時、「先生がた」「先生たち」は言えるが、「先生ら」はあまり言わない。これらの例は、「ら」の方が「たち」より敬意がかけていることを表している上に、それだけが使い分けの条件でないことを示している。「たち」と「ら」を簡単に「同じ」と言い切ってしまうことは避けるべきだろう。このように、「たち」と「ら」は無意識にしろ意識的にしろ使い分けられてきた。

そういう観点からみて、使い分けの条件として、いくつかの仮説と実例を取り上げる。その中でも、ここでは「僕たち」と「僕ら」、「わたしたち」と「われら」「わたしら」などの自称詞の複数形が、どんな感覚的な差異を持つのかを考察していく。

そのために、ここまでで立てた仮説を二つ挙げてみよう。そして、この仮説に基づいて、いろいろな例を取り上げていきたいと思う。

一、自称詞が複数形の場合、該当の人称表現に、話し手と共に、聞き手が含まれているのかどうかによって「たち」と「ら」が使い分けられている傾向が見られる。 すなわち、「僕たち」と発話する時は、聞き手と話し手を含めて指しているが、「僕ら」というように発話する時は、聞き手を含まない複数を示している場合が多い。次の例を見てみよう。

「たち」と「ら」の使い分け

(18) 「そう、僕とあなたのこと」「それは」「加世が君にどういったにしろ、僕たちに

31

やましいことはないよ、ね?」(中年男性⇔女性) (森瑶子『女盛り』)

(19) 「いつからあなたたち、私にかくれてコソコソ逢っていたの?」「あなたたち? 誰と誰を指しているんだ?」「きまっているでしょう、あなたと乃里子さんよ」「どうしていきなり僕と乃里子があなたたちと、こうなるのかわからないが、この際はっきりしよう。僕らはこそこそなどしてはいない。君が想像するような関係など、まだ存在していないんだ」(中年男性⇔自分の妻) (森瑶子『女盛り』)

(20) 「身近をきれいにするのはいいですよ。それはいつでもできるんだ。問題は、乃里子の方に僕を受け入れるつもりがあるかどうかなんです。わかりますか、文字通り「あんたたちの夫婦の何が問題かなんてプライベ受け入れるかどうかが僕らの―」

ートな事、わたしは聞きたくないわ。お願いだから、そういう事は私の耳に入れないで解決してちょうだい」(中年男性⇔母親) (森瑶子『女盛り』)

上の三例のうち、(18)と(19)は同じ男性の発話である。(18)は知り合いの女性との会話で、聞き手の女性と自分のことを指して「ぼくたち」と言っている。(19)は自分の妻との会話で、(18)での同じ女性と自分のことを指して「僕ら」と言っている。(20)も同じ作品であり、この現代小説の作家は、感覚的にしろ意図的にしろ、聞き手の包含如何による区別をはっきりしていることが分かる。

しかし、同じ自称詞といっても、「ぼくら」「ぼくたち」などの男性専用自称詞よりは「わたしたち」「わたしら」の方が聞き手の包含如何に鈍感である。この理由は、「わたし」という自称詞の特徴とつながる。男性の用いる「わたし」は、1.3節でも述べたように、かなりフォーマルな場面でなければ使わない。したがって、大部分の「わたし」は女性が用いている。さらに、確かに女性は男性より複数形の「ら」を回避する傾向がある。 これは、「女性語・男性語」の側面から見ても、やはり女性の方にもっと丁寧な言葉遣いが求められており、「ら」は「がた」や「たち」より荒い、丁寧度が落ちるという認識が一般的だからであろう。それで、女性の男っぽさを強調したい場合には、自称詞に「ら」をつけた次のような例もみられる。

32

(21) 「しかしさ、私ら、引っ越し難民だね…」(30代女性⇒弟)

(北川悦吏子『ロングバケーション』)

二、「ら」の方は、共通性を強調するよりは、他集団との区別に重点を置いた表現によく用いられ、対立性を強調していることが多い。したがって、「たち」は、「ら」に比べて対立性が弱く、二、三人にとどまる場面が多いのに対して、「ら」の方は多人数になる傾向が強い。これは、当然のことだが、一の『「ら」は聞き手を含めていない場面でよく使われる』という仮説ともつながりがある。分離性の強い語だからこそ、聞き手を入れていない両立的な立場を取っているのであり、この現象も対称詞よりは自称詞の方が著しい。

(22) 「われらの時代が創り出した私たちの歌ではない」(中年男性の独白)

(五木寛之『風に吹かれて』)

(23) 「僕らの時代は悲惨なものだったんだよ。きみたちは幸せだなあ」(中年の男性⇒青年) (五木寛之『風に吹かれて』)

(24) 先日、ある集まりで、私は今の青年たちに何も期待はしていないと発言した。彼らは率直に「ぼくらも大人たちには期待していません」と言い、そして私たちはお互いに何となくおかしくなり、笑い合った。(青年⇒中年の男性)

(五木寛之『風に吹かれて』)

(25) 「いつも土曜の朝、宇宙船を見に行く遊び仲間たち-シッド、マック、アール-。彼らは戦うことはしないんだ。からだをかわし、うまく逃げてしまう。でもぼくらふたりはそうはいかない…-ぼくらは待つんだ」(男の子の独白)

(コミック『ウは宇宙船のウ』)

(22)と(24)は、「ら」と「たち」を使い分けることによって、その感覚の差を明確に見せている例である。「われら」「ぼくら」の対立性重視に対して、「私たち」は共感帯の形成を狙っている意図が見られる。(25)の例も、少人数を指してはいるが、確実な対立性を強

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調している。

このように、資料調査の結果による仮説を、二本立てで述べてみた。しかし、この二つの仮説は基本的には一つの概念を基盤にして立てられているとも考えられる。それでは、この概念を説明するために、山梨正明(1995)の『認知文法論』の一部分を引用したい

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山梨(1995)は著書の中で、ある対象をその構成メンバーからなる複数の存在としてみるか、総合された単一の存在としてみるかの判断を、照応の観点から説明するために、『「総合的」認知』と『「離散的」認知』ということばを使っている。もう少し、具体的に説明すれば、次の図のようになる。

【図6.総合的認知と離散的認知】

A.「総合的スキーマ」 B.「離散的スキーマ」

【図6】のAは、我々の認知のフォーカスが総合的に「集合それ自体」におかれる場合、Bは認知のフォーカスが離散的に「集合のメンバー」におかれる場合を示すものとする。(p.127)

山梨氏は、その指示内容が複数の存在から成っている対象を、「それ」とうけるか「それら」とうけるかの判断基準として上の【図6】を提示し、Aの場合は「それ」、Bの場合は「それら」でうけるのだと述べている。

しかし、本稿では、この論説をもう一段応用して、「たち」と「ら」の使用判断基準として活用してみた。山梨(1995)の通りに「その指示内容が複数の存在から成っている対象」を、単数形として扱うのか複数形として扱うのかの判断では、確かに「たち」の方も「ら」の方もBのケースであろう。だが、「たち」と「ら」を対照してみた場合、それは明らかに違ってくる。すなわち、「たち」は認知のフォーカスを「集合それ自体」に置いているのに対して、「ら」は「集合のメンバー」に置いている。上記の仮説で最も基本的な概念として提起した、「共感帯形成」と「分離性」という発想の流れを確かめることができる。

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これらに関連して、新聞での「たち」と「ら」の使い分け方を考察してみた。新聞で用いられる「たち」と「ら」は、もちろん会話体よりは文章としての記事の中に出ているので、本稿の最初の意図とはそぐわないところもないわけではない。しかも、新聞の特徴上、人称詞についている「たち」と「ら」の例はほとんどない。しかし、数多い例を一つ一つ観察していく過程で、ある傾向を確認することができた。それは、新聞で用いられる「ら」は、その群を表す傾向があるということである。

例えば「先生ら」と記述した場合は、先生何人かを含めている関係者の集まりを示し、「先生たち」と書いたら、群のみんなが先生の集まりとなる可能性が大きい。同じ脈絡から、誰かの名前や肩書きに複数形の接尾辞をつける場合、すなわち、「誰々(接尾辞の前に来る人物)を含んだその連中のこと」を表したいときも「たち」よりは「ら」を好む傾向が明らかに見られた。いくつかの例を取り上げてみよう。

(26) 「前部座席には千田さんら三人が乗った状態で、後部座席にいたとみられる男女三人は路上に投げ出されていた。」 (朝日新聞 98.7.30夕刊)

(27) 「‘ヘッドホンでダイエット’会社幹部ら逮捕…同社営業部長の三戸隆文容疑者(四四)=広島市安佐南区相田5丁目)ら幹部二人と女性販売員二人を、薬事法違反と訪問販売法違反の疑いで逮捕した。」 (朝日新聞 98.8.5)

(28) 「岩の急斜面で鎖を頼りに上る登山者たち=富山県の北アルプスで

(朝日新聞 98.7.30夕刊)

(29) 「作詞者の妻ら対面」 (朝日新聞 98.8.7夕刊)

(26)と(27)を見れば、特定の人の名前には複数形接尾辞として「ら」をつけているのが分かる。また、(27)の「会社幹部ら」とは、「幹部二人と販売員二人」であることが、続きの文章から分かる。(29)の「妻ら」も、当然、「妻一人と周りの何人か」を示しているはずである。(28)は山頂で撮った写真説明の文句で、もちろん全員が「登山者」である。 しかし、「ら」は「たち」に比べて中立性を強く表現している傾向がある。よって、読

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者との連帯感を生かしたい記事、たとえば、地域のニュースとか祭りの情況などを主にしている記事では、「ら」より「たち」の使用が目立つ。これは上記の仮説でも確認されているように、「ら」の「分離性」と「たち」の「共感帯形成」という特徴から来ているに違いない。

以上、「たち」と「ら」をいろいろな角度から考察し、我々が普段きづいてないが、その使い分けに関わっていると推測できるルールをいくつか提起した。それでは、このルールに基づいて、実際「たち」と「ら」の人称詞との密接度を、検索方式を利用した表と図を通じて調べてみよう。

3.3

調査の資料としては、新聞、現代小説、漫画の三種類に分けている。新聞は『CD-毎日新聞’93データ集』から『CD-毎日新聞’96データ集』までになっており、その上に、2.2節での現代小説8作品とコミック漫画3冊を加えた。この中から、調査対象にしたい人称詞と、その人称詞に「たち」と「ら」がついている出現回数を別々取り出し、総合してみた。その結果が【表6】となっている。

【表6.資料別「たち」と「ら」の出現回数】

人称詞に付く「たち」と「ら」

新聞 小説 漫画 総計

新聞 小説 漫画 総計

新聞 小説 漫画 総計

わたし 61,426 2,368 58 63,852 ぼく 5,765 919 64 6,748 おれ 4,400739555,194あなた 5,189456355,680あんた 44112529595おまえ 1,479 332 28 1,839 総計 78,7004,93926983,908わたし たち 15,750 210 5 15,965 ぼく たち 734 51 4 789 おれ たち 187585250あなた たち 121100131あんた たち 238132おまえ たち 75 5 0 80 総計 16,8903421517,247わたしら ぼくら おれら138 976 340 5 00 2 0138 983 34あなたら000036

あんたら332136おまえら 71 6 1 78 総計 1,2521341,269

そして【表6】の総計を百分率にしてグラフ化したのが【図7】である。さらに、この三つの図をわかりやすく、百分率の表としてまとめてみたのが下記の【表7】である。

【図7.資料別人称詞の相互出現率】 あんたおまえ1%2%あなたおれ7%6%ぼく8%わたしぼくおれあなたあんたわたし76%おまえ 【図7-1.資料別「たち」の相互出現率】 【図7-2.資料別「ら」の相互出現率】 あんたら3%おれらおまえら3%6%わたしら11%あなたら0%おれたちあなたたち1%1%ぼくたちあんたたち0%5%おまえたち0%わたしたちわたしらぼくたちぼくらおれたちおれらあなたたちあなたらあんたたちわたしたち93%あんたらぼくら77%おまえたちおまえら 【表7.「たち」と「ら」の出現率の比較】 (単位:%) 個々の人称詞 「たち」付き 「ら」付き わたし769311ぼく 8577おれ 613あなた710あんた おまえ1 20 03 6個々の人称詞の比率に照らして「たち」と「ら」を比較してみると、何より目立つのは 37「ぼく」には「ら」が付きやすいということで、これに反して、「わたし」の場合は「ら」が付きにくいということが分かる。その上、「あんた」と「おまえ」の、「たち」の例がないのは、資料の人称詞の用例が少なかった影響だと思う。それにしては、「ら」の例が「あんた」3%、「おまえ」6%というのは、かなりの出現率である。すなわち、総合的にみれば、「わたし」には「たち」が付きやすくて、「ぼく」「あんた」「おまえ」には「ら」が付きやすいということが分かる。

この結果に基づいて推測できる内容を、四つに分けてまとめてみた。

一、「あなた」には「ら」は付けられない。2.3節で述べた通り、「あなた」は他の対称詞とは違う、独特な待遇価値を持つ。他の対称詞に比べてあまり感情を含まない傾向があるので、敬意度に鈍感で公的な印象が強い。これに対して、「ら」は「たち」より確かに荒い感じを持っているので、人称詞の中でも、対称詞につけるときは、相手がはっきり目下の人か、相手を低めるような場面でなければ、付けにくいといわれる。よって、「たち」より感情が入り込みやすくて私的性格の強い「ら」は、「あなた」とそぐわないのである。 二、「わたし」には「ら」より「たち」が付きやすい。一でも述べているように、「ら」は確かに「たち」より荒い感じを持っていて、敬意度が落ちるという認識が多い。しかし、男性専用自称詞の「ぼく」「おれ」の存在を考えると、ほとんどの「わたし」は女性が用いる。だから、「女性語・男性語」の観点から考えても、男性より敬意度の高い言葉遣いが求められる女性が使うには、「ら」より「たち」が好まれるわけである。

三、「ぼく」と「おれ」の場合、インフォーマルで目下の人によく用いられるといわれている「おれ」よりも、どちらかと言えば、フォーマルとインフォーマルの中立的な位置にある、「ぼく」の方に、「ら」が付きやすい。この結果は何を意味するのか。前章で証明した通りに、男性自称詞を「わたし」「ぼく」「おれ」の3階級に分けて、単純に「ぼく」を「おれ」より敬意度の高い待遇階級に置くのは無理であることが分かる。

四、「たち」と「ら」の使い分けには地域差が強く影響している。二でも述べたように、自称詞「わたし」は女性が主に用い、女性は男性より複数形の「ら」を回避する傾向があるので、一般的に「わたしら」は、実際あまり使われない語である。しかし、本稿の調査で出現している「わたしら」の場合、大抵が関西の方言と一緒に使われているということが分かった。実際関西地域ではよく耳にする形である。「わたしら」だけではなく、「ら」

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の付いたことばは、方言と深い関連を持っていると思わせる用例がよく見られている。たとえば、上の『女性語・男性語』のパートでも触れているように、対称詞「あんた」は地域差が強くて、関西で最もよく用いられるが、それにつける複数形接尾辞も、特に関西では「たち」より「ら」の使用が圧倒的に多いである。

以上の一から三を総合してみると、敬意度という側面から考えて、「たち」よりは「ら」の方が、該当人称詞を低める機能を持っていると言える。しかし、四の結果などを含めてみると、「たち」と「ら」は単純な敬意度の差だけで使い分けられているのではないということが分かる。

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4 おわりに

以上、自称詞・対称詞を中心にした、日本語の人称詞を考察してきた。その内容を簡略にまとめてみよう。

日本語の人称詞は、西欧諸言語とは明らかに区別できる特徴を持っている。だからこそ、その名称においても様々な議論が交わされているのだろう。単純なコミュニケーションの手段としての人称代名詞ではなく、日本語の人称詞は、その場その場で、それなりの待遇的役割を果たしている。したがって、人称詞を取り入れる際には、自分のおかれた「場面」をうまく理解し、適切な待遇価値を持つ人称詞を用いなければならないのである。つまり、各々の人称詞は、敬意度の違いを基本とする待遇階級を持ち、我々は「場面」にふさわしい待遇階級の人称詞を使い分けるように求められるのである。

しかし、個々の人称詞が持っている待遇価値というのは、絶対的なものではない。時代によって変化し続け、今では、敬意度だけで人称詞の待遇価値を決めることはできない。 まず、人称詞は地域によって、使用頻度が非常に違ってくる。関西地域では関東などに比べ、「あんた」の使用が目立ち、老若男女の区別なく、幅広く使っている。その上、男性専用語といわれる「おまえ」を、関西では女性がよく用いるなど、人称詞一つ一つに対しての認識が地域の影響をかなり受けていることは否定できない。このような地域による人称詞の使い分けについての研究は、あまり先行調査がないので、本稿に続き、これからの研究でもっと具体的に発展していきたいと考えている。

ほかにも、人称詞の待遇価値に関係する要因は様々である。1.3節では、日本語の特徴ともいわれる「女性語・男性語」の視点から人称詞を観察してみた。性別によって用いられる人称詞が限られるという、日本語ならではの特徴は、人々の人称詞に対する認識やその使い分けにもかなり影響を及ぼすことが分かった。同じ人称詞「わたし」を用いても、話し手が女性か男性かによって、待遇価値が変わってくるのである。

本稿では、人称詞の待遇価値の変化を考察するにおいて、男性自称詞の「ぼく」と「おれ」に注目してみた。先行調査では、「人称詞の敬意漸減」という歴史的な観点を取っているのが多い。しかし、ここでは、現代日本語の範囲で、社会言語学的観点から見る「ぼく」と「おれ」の待遇価値の変化に焦点を当てた。

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その調査の結果、「ぼく」と「おれ」は確かに変化を見せていることが分かった。「ぼく」と「おれ」は両方とも使用率が高くなっている。とりわけ「おれ」の使用量の増加は著しい。

まず、「ぼく」の場合、場面のフォーマル度によっての「ぼく」から「わたし」への切り替えが少なくなり、境界線が緩くなっている。これは、「ぼく」の「文末の丁寧体」との密着度の増加、「ぼく」と「きみ」の対使用率の減少などの、本稿の調査結果が証明している。つまり、「ぼく」が「わたし」の待遇階級に侵入、その勢力圏を広げているといえるだろう。

その上、「おれ」の場合も、「文末の丁寧体」との密着度は増加し、「おまえ」との対使用率は減少しているなど、使用範囲を広げていることが分かった。特に、「おれ」を自称詞として用いている会話文の中で、全く見られなかった丁寧体率が、少しずつ増えているのは明瞭である。これは、人々の認識の中で、「おれ」の待遇価値が、その階級を高めてきていることを表しているのではないかと考えられる。

そして、最後に取り上げたのが、複数形を表す接尾辞の機能である。その中でも、「たち」と「ら」の比較に注目し、今まで感覚的に使ってきたこれらの接尾辞に、使い分けのルールを加えてみた。そのために、ここでは、山梨正明(1995)の認知論的な観点からの「総合的認知」「離散的認知」という概念を借りて説明した。つまり、「たち」の持つ特徴の「共感帯形成」と、それに反する、「ら」が持っている特徴と言える「分離・対立性」の傾向が、これらの接尾辞の使い分けに大きく作用しているとの論である。

「たち」と「ら」の、人称詞との関連性も考えてみたが、やはり、一章と二章でも続けて述べてきたように、女性のよく用いる人称詞ほど「たち」が付きやすく、男性専用語といわれる人称詞ほど、荒い感じの強い「ら」が付きやすい傾向がみられた。しかし、「おれ」より「ぼく」の方が「ら」の付きやすいという調査結果があって、これは、二章での調査で検証した、「ぼく」と「おれ」の待遇価値についての考察の延長線上で考えられることである。

さらに、「わたしら」「あんたら」などは、関西地域でよく用いられ、人称詞と方言との関連性を強く示している。これについては、これからの課題として研究し続けていきたいと思っている。

このように、日本語においての人称詞とは、単純な辞書的意味だけの語ではない。様々

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な社会的な要因と絡みあい、影響しあいながら、自分の持つ待遇価値を替えていく、変化の多いことばである。本稿で考察してきた内容のみならず、日本語の人称詞はまさに様々な姿を持っている。この論考に引き続き、これからもいろいろな側面から人称詞を観察し、そのありかたや変化の傾向などについて、もっと深く研究し続けていきたい。

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[注]

1

真田信治 他(1992) 『社会言語学』、おうふう 鈴木孝夫(1973) 『ことばと文化』、岩波新書

田窪行則(1992) 「言語行動と視点-人称詞を中心に-」『日本語学』8-11 金丸芙美(1993) 「人称代名詞・呼称」『日本語学』5-12

小林美恵子(1997) 「自称・対称は中性化するか」『女性のことば・職場編』、ひつじ書房 前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」

「お袋」の場合はどうなのか。いくら呼ばれている通りといっても、母が自分のことを息子に対して「お袋」と称するのは、「男性語・女性語」の観点から見てふさわしくない。

2

3

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5

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7

8

れいのるず 他(1993) 『おんなと日本語』、有信党 前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」 前掲論文 金丸芙美「人称代名詞・呼称」

前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」

前掲の金丸芙美(1993)によれば、“「あたし」は、「わたし」の変化した女性専用語であるが、さらに俗な印象を伴い、下品に感じられることが多い。”と述べている。

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11

12

13

佐久間鼎(1927) 「言語における水準転移(特に日本語における人代名詞の変遷について)」 但し、鈴木孝夫(1973)から再引用

14

小松寿雄(1998) 「キミとボク-江戸東京語における対使用を中心に-」『東京大学国語研究室創設百周年記念国語研究論集』、汲古書院

15

前掲論文 鈴木孝夫『ことばと文化』から再引用

これは、あくまでも文学史の側面から見た区分方式であって、日本語史の視点から見たら両方とも「現代日本語」と分けられる時代である。

16

17

前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」 前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」 前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」

前掲論文 小松寿雄「キミとボク-江戸東京語における対使用を中心に-」 前掲論文 小林美恵子「自称・対称は中性化するか」

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19

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22

萩野綱夫(1997) 「敬語の現在」『月刊言語』26-6 前掲論文 鈴木孝夫『ことばと文化』

野元菊雄(1978) 「日本語の性と数」『月刊 言語』6-7 山梨正明(1995) 『認知文法論』、ひつじ書房

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[例文採集資料]

内館牧子『…ひとりでいいの』 角川文庫 1993 森瑶子『女盛り』 角川文庫 1986

北川悦吏子『ロングバケーション』 角川書店 1996 妹尾河童『少年H』 講談社 1997 武者小路実篤『友情』 新潮文庫 1919 夏目漱石『それから』 新潮文庫 1909 夏目漱石『こころ』 新潮文庫 1914 ねじめ正一『本日開店』 新潮社 1990 五木寛之『風に吹かれて』 新潮文庫 1968 コミック『ウは宇宙船のウ』 1997 朝日新聞7/30、8/5、8/7 1998

[検索資料]

『CD-毎日新聞’93』~『CD-毎日新聞’96』 毎日新聞社 『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』 新潮社 1995 『CD-ROM版 新潮文庫 明治の文豪』 新潮社 1997 『まんがタイム』11月号 芳文社 1998

『こちら葛飾区亀有公園前派出所』 集英社 1996 『まひろ体験』 講談社 1986

45

[参考文献]

『広辞苑』(一版)(1955) 岩波書店 『言泉』(1986) 小学館

鈴木孝夫(1973) 『ことばと文化』 岩波新書 山梨正明(1995) 『認知文法論』 ひつじ書房 辻村敏樹(1968) 『敬語の史的研究』 東京堂出版 中尾俊夫 他(1997) 『社会言語学概論』 くろしお出版 真田信治 他(1992) 『社会言語学』 おうふう れいのるず 他(1993) 『おんなと日本語』 有信堂

田窪行則(1992) 「言語行動と視点-人称詞を中心に-」『日本語学』8-11 明治書院 金丸芙美(1993) 「人称代名詞・呼称」『日本語学』5-12 明治書院

小松寿雄(1998) 「キミとボク-江戸東京語における対使用を中心に-」『東京大学国語研

究室創設百周年記念国語研究論集』 汲古書院

萩野綱夫(1997) 「敬語の現在」『月刊言語』26-6 大修館書店

吉岡泰夫(1997) 「敬語行動と規範意識の地域差」『月刊言語』26-6 大修館書店 野元菊雄(1978) 「日本語の性と数」『月刊 言語』6-7 大修館書店

佐藤和之(1998) 「方言主流社会の呼称行動と言語意識」『日本語学』8-17 明治書院 片村恒雄(1990) 「文学作品の中の呼称」『日本語学』9-9 明治書院 国広哲弥(1990) 「「呼称」の諸問題」『日本語学』9-9 明治書院

小林美恵子(1997) 「自称・対称は中性化するか」『女性のことば・職場編』 ひつじ書房 ヴロダルティック・アンドレ(1997) 「日本語の敬語と西洋語の人称」『月刊言語』26-6 大修館書店

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